jjさんの日常生活

jjと呼ばれる人のありのままの日常生活をスケッチし、世の中の事象についての軽い感想を記す。

何が起こるかわかったものではない!

1960年代後半から70年代にかけて、資本主義はその矛盾が極限に達して今にも崩壊すると、声高に叫ばれた政治の季節があった。

だが、終末や崩壊の危機の実感はほとんどなかった。

そして2020年の今、世界同時革命は確かに到来したようだが、それは高度情報化社会として実現されたものだった。

この高度情報化社会は金融資本主義にも恩恵をもたらしたかのようであるが、高等数学などを勿体らしく折込ながら、益々フィクションにも近い観念的なものにもなって、人々の欲望を限りなく刺激し続けている。

ここには極めて容易にすべてのものが崩壊していくような危機を孕んだ切迫性がある。

そして、今やこの高度に情報化された金融資本主義のシステムは、もちろん旧来の革命イデオロギーによってではなく、また、偶発的な核戦争や自然災害に絡んだ事故、あるいはコンピューター・ウイルスによってでもなく、変異した本物のウイルスによっても一瞬にして容易に崩壊しかねないことが今回、警告され、証明されようとしているようにも思える。

こんな時、オリンピックどころの話ではないだろう。

G7の電話会談でオリンピック開催を危ぶんで話題に出し、各国首脳の反対はなかったと日本国首相は言っているようだが、あまりにピントが外れていないか。

もっとも、米国をはじめ、ヨーロッパ首脳も、当初このウイルスを甘く見ていたようだ。だが、強権の中国があれだけ血相を変えていたのだから、これはただごとではないと思うべきだったのではないか。

簡単に抑え込めるようなウイルスなら、中国はもっと平静でいたろうから、これは何かあるともっと真剣になっていてよかったはずだ。

中国から、各国はもっと有益な情報をもらうべきだし、有益な情報があるなら、中国はそれを世界に提供すべきだ。

 

 

台風で実家が浸水

台風19号で県北のD町の実家が床上浸水したらしい。もう、父母も亡くなって誰も住んでいない実家だが、やはり悲しいし、ショックだ。

まだ、断水なのかどうか、何を聞いても町の役場も水道局も混乱していて、無理もないが要領を得ない。

本当は、14日に車で行かねばと思ったが、町の水道も断水しているかも知れず、断念した。天気もよくない予報だったので片道100キロは遠すぎた。

実家近くに高速道路があればまだよいのだが、老いて身体を護らねばならぬ自分に、半分以上一般道路というのはきつい。

土地、建物の、遠距離からの維持管理も容易ではないことが身にしみて分かるようになってきた。

太平洋戦争の恐怖を経験した私の父母は、東日本大震災とこの台風19号の大規模水害は見ずに亡くなった。

K川のコンクリートの護岸の縁に仲睦まじく座っている私の父と母の結婚前後の写真を見たことがある。私が小学生のころ遊んだK川はいつもそんな川だと思っていた。

今回、K川に架かるJRの鉄道橋は2つも崩落した…町の誰もが思いもよらなかったことに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

小四犠牲者の義父、逮捕

昨夜は、東電元経営陣無罪判決が報じられたが、TV報道では、埼玉県の教職員住宅での小四殺人事件で、義父が死体遺棄容疑で逮捕されたというニュースがNHKなどで、それに先んじて報じられた。

またもショッキングな、なんとも傷ましい事件であるが、ニュースの順番は、私にはちょっと違うだろうと思われた。

まあ、それは今回措くとしても、この事件、少年の恐怖と驚きは如何許りかと思うと、実にやりきれない。本当にあってはならない無惨な事件だ。

顔見知りの、おそらくは身近な人間が当初から事件に関わっているのでは、と疑われていたことは、警察でなくとも、子どもの遺体が、深夜における自宅の目の前での捜査で発見されたという異様さ辺りから、それとなく大方に感じられるものとなっていた。

昼ごろの報道でもしきり不可解な事件であることが強調され、間近に犯人がいるのではないかということ、短時間で目星がつけられるであろうことは匂わせられていた。

母親(42)が高校の教員で、義父である父親(32)が無職とも早くから報道され、人々の関心を引いていた。

その父親が、昨夜、遺棄容疑で逮捕された。

どんな家庭の事情あったのか、事件の動機は何なのかは知らないが、事情や動機の如何に関わらず、幼少年の遺棄事件に如何なる正当化もあり得ない。

予断を持って見てははいけないが、これはまさに精神分析学的な解釈が容易にできる案件であるのかもしれない。

だが、いずれにせよ、少年は逮捕された人間をあまり頼りない義父ではあっても父親として最低限は信頼し、理解しようとしていたのではなかったか。

そうした年ごろの少年の心を裏切り、命を奪った罪は決して許されない。

 

 

 

東電に無罪判決

東日本大震災時の津波の予見性が問われた刑事裁判で、被告3人に無罪判決との報道。

この裁判が、果たして刑事裁判で責任が問われるのが相応しいのかどうか、素人の私にはよくわからない。

一般的な想像に過ぎないが、社長などトップクラスの人物が大地震での津波の予見など確かにできないのが普通だろう。

だが、これは、予見などできようはずもないから無罪です、では困るのだ。

科学的知見を有しないトップなら、むしろ、謙虚に、既にあった深刻な津波の高さなどに関わる試算を---人の生命と生活基盤に関わることになる重大な試算を---会社に都合よく疑うのではなく、先ずは受け入れるべきではなかったか。

それをせず、工事費が膨大になることが分かったためかどうか、被告側はその試算に不信感を抱いたらしい。

大震災前にあった津波に関わる試算が有益なものであったことは、震災そのものが証明したのだから、この不信感は明らかに間違っていた。

にもかかわらず、その試算を信頼性に欠けるものとトップが判断したのは、やはり重大な過ちだったし、それが重大な結果をもたらしてしまったという法律判断は導けなかったのだろうか。

この辺のところが、どうも私には分からない。

TV報道で聞く限り、最初に結論ありきの粗雑な作文の判決文という印象を受けた。

忖度された判決文という批判の声もあった。独立が認められている裁判官が行政に忖度したり、己の保身を図って判決文を書いているとは思いたくないが、今回の判決、自然現象なのだから完璧な予見など誰にも望めない、だから無罪、こう言っているように聞こえてならない。

こんな一般論が通じるなら、専門家は要らないし、トップは専門家の意見を聞かずにやっても、また、どんな結果が起こっても、何の責任も取る必要がなくなってしまう。

TV報道では分からないことが多いので、改めて後日、新聞で判決文を詳しく読んでみたい。

 

 

ハッと気づく不思議な脳

今日は内科に行く予約日だったが、朝はすっかり忘れて起床。

カフェオレを作り、5枚切りの食パン1枚を焼き、リンゴ2切が準備され、カフェオレを一口飲んで、リンゴ1切を齧ったところで、ハッと今日が内科に行く予約日であることに気づいた。

昨夜、この予定は、確かめ、明日は行かねばならないなと分かっていたが、朝になると忘れていた。

しかし、リンゴを齧ったところで気づいたので、我ながら、自分の脳はまだ衰えていないことが分かり、少し嬉しくもあった。

早速、近くの病院に駆け込み、血液採取に間に合った。

今日も暑くなりそうな良い天気だが、ふだん待たされる採取、行ったらすぐにやってくれた。

今、診察待ちである。

それにしてもなぜ脳は、仕掛けたように予定をパッと思い出してくれたのだろう。

リマインダーに入力もしなかったが、その罰が美味しいバターとブルーベリーを半々にぬった食パンが食べられなかったことだろう。

モネの「睡蓮、柳の反映」-TV放映された復元画像について

壊滅的な状態で日本に返還されたモネの「睡蓮、柳の反映」、この作品をデジタル復元しようとするNHKのTV番組を見た。

前にブルーレイで録画しておいたものを見終わったのでその感想などを書いておく。

フランスで「発見」され、日本に返還されたというこの作品、恐らくフランス当局では、疾うに展示を諦めて、保管庫にそのまま見捨てられたように眠らせていたものだろう。

そうであるなら、今回の「発見」に特別な驚きは感じない。

モネの作品に対するこの数十年、いや半世紀にわたる驚くべき評価の高まりが、こうした壊滅的な作品にまで特別な注意が向けられるようになったということではないか。

 

この作品を今回、AIなどを使ってできるだけ正確に復元しようする試み、その成果の復元画像は、TVでは大きく3段階にわたって提示されていた。

 

まず、筑波大のAI研究者による初期から晩年に至るモネの作品200点ほど(だったか?)を(因みにモネの油彩画は2000点以上ある)AIに何百万回も学習させて、白黒画像に色を着けた復元画像を製作する。

これが第1段階。

だが、これは、西洋美術館の館長を始めとする美術館専門家に、作品の上半分と残された下半分とに様式的な違和感があると指摘されてしまった。

また、特に復元された中央部の黄味がかった色彩に問題があるとされた。

様式的な違和感は、TV画像からでも確かに容易に感じられるものだったし、色彩については、私は作品上方にいくつかあった紺色がかった部分に最も問題があると感じた。

色彩の問題については、モネの初期作品からのデータ入力(データの価値評価に対する不適正さ)の影響が出たと考えられたようである。

1870年代の作品や、もっと多くの作品からの真正なデータを入れるのは悪くはないとは思うのだが、復元しようとするのは、年代のはっきりしている晩年の作品であるから、初期および中期作品のデータと晩年作品のデータを等価値のものとして処理したとするなら、あまり適切ではなかったということになる。

美術専門家からの違和感の指摘で、委託された復元担当者は、今度は晩年のモネの作品を多く所蔵するマルモッタン美術館に向かう。

これが第2段階のデジタル復元画像に向かう最初。

ところが、モネ晩年の未完成作品が多いこの美術館を委託担当者が訪れて、大学のAI研究者とともに製作した第2段階の画像は、私が見るところ、全体になぜかグレーがかった臆病な色調になっていた。これは頂けない。

委託された担当者は、これまでの方法では白黒写真に色を付けていくという感じになって、平板になってしまうところに問題があると反省し、今度は、現存画家にモネのストローク(筆致)を模倣させ、それをAI研究者とともに、デジタル画像に取り入れて、第3段階の復元画像製作に取り組む。

AIによるモネ作品の客観的データ学習では、何百万回やっても、専門家を満足させることはできないと覚ったらしい。

こうして、モネ作品以外の人為的なデータも組み込まれることになった。確か500に及ぶモネの特徴的とされるストロークがデータ化されたようだ。

モネがほとんど無意識的になしている無数のストロークのうちから、意識的、人為的に選ばれたものが、つまり、そのような模倣的に制作された断片が、データ化されたということである。

こうして番組の終わりの方で提示された第3段階の復元画像、これには、西洋美術館の専門家も、前の画像に比べると、かなり満足した様子であった。

確かにストロークの効果を取り入れた第3段階の画像は、その力強さのみでなく、なぜか色彩まで見違えるほど修正されており、格段に良くなっていた。

色彩も青や深い緑の階調を中心にかなり脳の中に描かれた復元画像のイメージに近いと感じるものであった。

ただ、今度はストロークがやや過大に強調されているきらいがあることは否めない。 モネと同じ形態のストロークでも、すべて意識的に模倣して描いたものであるから、そこが目立ってしまうのかもしれない。

モネ自身のストロークは、意識的なものばかりでなく、むしろ大部分が無意識的な自然なコントロールから生まれたものである。

すなわち、作品全体に統一感や生動感を持たせつつ生まれたスピード感や力強さをもったストロークではないから、今度は逆にストローク自体がやや目立ち過ぎるものとなっているのだ。

もちろん、第3段階の復元画像は、前の段階よりは、かなり良いものではあった。

が、それはAIによる何百万回の学習による成果とはおそらく言えないだろう。

モネの白黒画像が、AIの学習によって自動的にカラー画像にいっきに変換されたのではなく、全く逆に、段階を追うごとに人間的・人為的な要素が復元画像の中に入ってきたのではないか。

美術専門家の批評的眼差しや、データとなるモネの作品の選択領域の制限、現存画家のストロークなどの要素が、回を追うたびに復元画像の中に入ってきたというのが事実だろう。

これは、控え目に言っても、中間に立って最も苦労したであろう委託業者と、美術専門家の眼と、AI研究者との協働作業だったのだ。

だが、TVのナレーションは、なぜかAIの学習の成果を、繰り返し強調し、「何百万回」の学習などと言って、その驚くべき回数を強調しているのが不思議でならなかった。

駐車場の庭木の剪定

小道を挟んで向かいにある駐車場の周囲3辺に庭木が植えてある。

昨日の午後は、そこの庭木の剪定と、駐車場に接する隣家のキュウイや、近辺の雑草から伸びてくる蔓を切断するのに時間がかかった。

茶の垣根の上を越えて、コニファー、椿、山茶花、バラ、桜、蜜柑の木の方までその蔓が覆っていた。

今年は、とりわけ植物の伸びるのが早いと感じる。

日本の気候の温暖化と自分の老いが重なって、作業も年々しんどくなる。

110キロも離れた実家の庭や墓も放置したままで気になる。近ければ綺麗に手入れするのだが、年に2度くらいしか行けない。

この世は、気になることが多く、気が重い。