jjさんの日常生活

jjと呼ばれる人のありのままの日常生活をスケッチし、世の中の事象についての軽い感想を記す。

停戦か徹底抗戦か

これ以上、ウクライナでの死者数を増やさないために今すぐ涙を呑んで停戦すべきか、不正義・不条理な一方的な侵略に対して、欧米からの武器援助を増大させながらの徹底抗戦が望ましいのか、これは大変に難しい問題だ。

「解がない」状態だと嘆いた学者もいた。
しかし、ウクライナの政治的指導者たちは、当然のように後者をとっているようだ。
だが、ウクライナの国民の間には、心の奥底では涙を呑んでの停戦を願う人もいるだろう。できるだけ早期の。

私自身ならどう考えるか。
もし私自身が武器を持って戦わねばならないとしたら、当然命を落とす危険があるわけであるから、涙を呑んで今すぐの停戦を願うかもしれない。
だが、停戦の条件というものはあると思うし、そのタイミングは現実的に考慮しなければならないとも思う。
そうすると、思考は何だかぐるぐると循環の様相だ。

そもそも戦争は国家と国家との対立であり、国民相互の対立ではない。特に今回のロシアとウクライナとの対立は、国民間の対立のようにはとうてい思えない。ロシアとウクライナにはそれぞれが友人、知人、親戚などが多いというではないか。
今の戦争は「正義の戦争」だと言う人もいる。確かにそうかもしれない。
誰だって見知らぬ人が武器を持って家の中に侵入してきたら、自分も武器を持って自分と家族の命を守るために戦わねばならないし、戦うだろう。差し迫った危機に対して議論などしている余裕はない。

だが、国家が犯された場合は、これと似ているように見えるが、そうではない。特に国境地帯での問題は複雑だ。

徴兵されて武器を持って戦う兵士たちは本来、互いに何の恨みも魂胆もなかったはずだ。それなのに突然、おそらくは意に反して、互いに殺人者となり、破壊者とならねばならない。中にはドサクサに紛れて戦争とは関係ない殺人、放火、強盗、強姦をはたらく者もいるには違いないが。

「殺すなかれ」は、人間としての最低限のモラルであり、互いに生き延びるための知であり戒律と思うのだが、宗教も倫理も戦場ではあったものではない。
徴兵された人間は、国家のためにとか、自分たちの大切な人のためにとか、誰か偉い人のためにという名目で自分のたった一つの命を棄てる危険をかえりみずに、思考を奪われたまま、瞬間瞬間を戦わねばならない。そうしなければ自らが殺されるからだ。

しかし、自分が守ろうとしている国家とはそもそも何なのだろう。人は何のために自分の命を捧げなければならないのか。自由と民主主義の世界にあって、それを信奉する万人が命を捧げるに値するものが何かあるというのか。

人為的な抽象概念に過ぎないように見える国家の実体は何なのだろう。戦争によって何か大きな利益を得る具体的な誰か、もしくは集団がいるのだろうか。おそらくそうしたものはいるのだろう。それが国家の実体だとは思わないが。
いずれにせよ、その人たちが戦争を直接に指導しているとは限らない。そこがなかなかに難しい。

様々なシステムのシガラミの中で現実の人間は生きている。義務、権利、その国の憲法や法律の束縛もあるだろう。その中で個人の利害関係や立場なども様々に絡み合っている。しかも国際関係という網目も複雑に絡み合ったままの中に個人が突然投げ入れられるのだ。いったん戦争が始まったら、個人が国家の論理に太刀打ちなど到底できそうもない。

いつの時代でも、戦争を密かに喜び、戦争によって大きな利益を得そうな武器商人やその他多くの人々がいることはいるのだろう。だが、そうした集団や組織に属する人々や軍人の家族なども徴兵される可能性はゼロではないし、志願して戦争に加わることが期待されることもあるかもしれないのだ。
戦争指導に直接に関わる政治家たちが徴兵される可能性は低いのかもしれないが、戦争の結果により重大な責任が負わされる。戦犯として死刑も覚悟しなければならないはずだ。

戦争ほど愚かな行為はない。なのにいったんそれが始まってしまうと人間の思考は奪われる。
他国による突然の侵略によって引き起こされた戦争の場合、国民が義憤により兵士となり、戦わねばならないのか、私には、本当を言えば、それすら分からない。

もちろん目の前にいる武器を持った侵略者に対しては、理屈抜きで戦うだろう。だが、それは戦場の兵士としての戦いではなく、個人の本能的な身を守るための戦いに近いものに過ぎない。

突然の侵略はもちろん許されないのだが、なぜそれがあれほどまで強引に引き起こされたのかは考えるに値する問題だ。単なる一人の特異な思考を持った指導者によってそれが引き起こされたものなのか、必ずしもそうではないのか。
だが、今回の戦争の場合、いずれにしても一人か二人の指導者の決断によってそれは止むことも可能なはずだ。それがなされないのがきわめて不幸なのであり、人間にとって最も不可解なことなのだ。

この上は、途方もない核兵器が人間の理性的な思考を狂わせないことを願うばかりである。