jjさんの日常生活

jjと呼ばれる人のありのままの日常生活をスケッチし、世の中の事象についての軽い感想を記す。

三上智恵さんの言葉

「戦争の悲惨さをいくら報じても、それだけでは戦争を止められません。戦争はどのようにして始まるのか。なぜ人々は反対できなかったのか。地域で率先して戦争に協力したのは、どういう人たちだったか。国による住民の監視はどう行われたのか。そうしたことを掘り起こすべきです。」(2022 ‐ 6 ‐ 21の朝日新聞記事より)

三上さんはジャーナリスト・映画監督。

停戦か徹底抗戦か

これ以上、ウクライナでの死者数を増やさないために今すぐ涙を呑んで停戦すべきか、不正義・不条理な一方的な侵略に対して、欧米からの武器援助を増大させながらの徹底抗戦が望ましいのか、これは大変に難しい問題だ。

「解がない」状態だと嘆いた学者もいた。
しかし、ウクライナの政治的指導者たちは、当然のように後者をとっているようだ。
だが、ウクライナの国民の間には、心の奥底では涙を呑んでの停戦を願う人もいるだろう。できるだけ早期の。

私自身ならどう考えるか。
もし私自身が武器を持って戦わねばならないとしたら、当然命を落とす危険があるわけであるから、涙を呑んで今すぐの停戦を願うかもしれない。
だが、停戦の条件というものはあると思うし、そのタイミングは現実的に考慮しなければならないとも思う。
そうすると、思考は何だかぐるぐると循環の様相だ。

そもそも戦争は国家と国家との対立であり、国民相互の対立ではない。特に今回のロシアとウクライナとの対立は、国民間の対立のようにはとうてい思えない。ロシアとウクライナにはそれぞれが友人、知人、親戚などが多いというではないか。
今の戦争は「正義の戦争」だと言う人もいる。確かにそうかもしれない。
誰だって見知らぬ人が武器を持って家の中に侵入してきたら、自分も武器を持って自分と家族の命を守るために戦わねばならないし、戦うだろう。差し迫った危機に対して議論などしている余裕はない。

だが、国家が犯された場合は、これと似ているように見えるが、そうではない。特に国境地帯での問題は複雑だ。

徴兵されて武器を持って戦う兵士たちは本来、互いに何の恨みも魂胆もなかったはずだ。それなのに突然、おそらくは意に反して、互いに殺人者となり、破壊者とならねばならない。中にはドサクサに紛れて戦争とは関係ない殺人、放火、強盗、強姦をはたらく者もいるには違いないが。

「殺すなかれ」は、人間としての最低限のモラルであり、互いに生き延びるための知であり戒律と思うのだが、宗教も倫理も戦場ではあったものではない。
徴兵された人間は、国家のためにとか、自分たちの大切な人のためにとか、誰か偉い人のためにという名目で自分のたった一つの命を棄てる危険をかえりみずに、思考を奪われたまま、瞬間瞬間を戦わねばならない。そうしなければ自らが殺されるからだ。

しかし、自分が守ろうとしている国家とはそもそも何なのだろう。人は何のために自分の命を捧げなければならないのか。自由と民主主義の世界にあって、それを信奉する万人が命を捧げるに値するものが何かあるというのか。

人為的な抽象概念に過ぎないように見える国家の実体は何なのだろう。戦争によって何か大きな利益を得る具体的な誰か、もしくは集団がいるのだろうか。おそらくそうしたものはいるのだろう。それが国家の実体だとは思わないが。
いずれにせよ、その人たちが戦争を直接に指導しているとは限らない。そこがなかなかに難しい。

様々なシステムのシガラミの中で現実の人間は生きている。義務、権利、その国の憲法や法律の束縛もあるだろう。その中で個人の利害関係や立場なども様々に絡み合っている。しかも国際関係という網目も複雑に絡み合ったままの中に個人が突然投げ入れられるのだ。いったん戦争が始まったら、個人が国家の論理に太刀打ちなど到底できそうもない。

いつの時代でも、戦争を密かに喜び、戦争によって大きな利益を得そうな武器商人やその他多くの人々がいることはいるのだろう。だが、そうした集団や組織に属する人々や軍人の家族なども徴兵される可能性はゼロではないし、志願して戦争に加わることが期待されることもあるかもしれないのだ。
戦争指導に直接に関わる政治家たちが徴兵される可能性は低いのかもしれないが、戦争の結果により重大な責任が負わされる。戦犯として死刑も覚悟しなければならないはずだ。

戦争ほど愚かな行為はない。なのにいったんそれが始まってしまうと人間の思考は奪われる。
他国による突然の侵略によって引き起こされた戦争の場合、国民が義憤により兵士となり、戦わねばならないのか、私には、本当を言えば、それすら分からない。

もちろん目の前にいる武器を持った侵略者に対しては、理屈抜きで戦うだろう。だが、それは戦場の兵士としての戦いではなく、個人の本能的な身を守るための戦いに近いものに過ぎない。

突然の侵略はもちろん許されないのだが、なぜそれがあれほどまで強引に引き起こされたのかは考えるに値する問題だ。単なる一人の特異な思考を持った指導者によってそれが引き起こされたものなのか、必ずしもそうではないのか。
だが、今回の戦争の場合、いずれにしても一人か二人の指導者の決断によってそれは止むことも可能なはずだ。それがなされないのがきわめて不幸なのであり、人間にとって最も不可解なことなのだ。

この上は、途方もない核兵器が人間の理性的な思考を狂わせないことを願うばかりである。

 

ロシア人とウクライナ人

 最近、ロシアによるウクライナ侵攻に関連して、日本にあるロシア料理店が襲われたが、実はそのお店の人はウクライナ人だったというようなニュースがあった。

 ロシア料理店で働いているのはロシア人だというような思い込みからお店を襲ったとするならとんでもないことだが、どんな思い込みや思想からであろうと、適法に働いている経営者や労働者を暴力的に襲うなど許されることではない。

 しかし、今回のウクライナ侵攻が起こるまで、多くの日本人はどれほどロシア人とウクライナ人とが違う民族だと認識していたか、自分自身のことを考えても甚だ心もとない。

 ウクライナの国土さえ、ロシアの隣にあるから小さく見えるが、フランスよりも広大ではなかろうか。そのウクライナがロシアの大軍に侵攻されるなんて、国際情勢とは恐ろしいものである。

 しかもウクライナ人は、ソ連邦崩壊まで、同じ国籍にあったのではないか。ロシア帝政時代やロシア革命期でも国籍上はロシア人と呼ばれていたのではないか。

 革命時代寸前、来日したエロシェンコ白系ロシア人とも言われるが、これはもちろんベラルーシのロシア人の意味ではない。であるが、その白系ロシア人エロシェンコにもボルシェヴィキの嫌疑がかけられ、日本を追い出されたのだ。

 中村彝が「エロシェンコ氏の像」を描いたのは、大正9年のことだが、今でもモデルはロシア人とかロシアの青年と作品解説されているものが多い。

 臼井吉見の『安曇野』では、エロシェンコの故郷ウクライナなどの表現があるが、同時にロシア人とも書いている。

 ともあれ、ロシアにはウクライナ人も多く住んでいるし、ウクライナにもロシア人は多いのだ。キエフでも多くの人はロシア語を話していると、最近の新聞に書いてあるのを読んだ。

 ソ連邦崩壊までウクライナ人とかロシア人というのは民族的な概念であり、国籍ではなかった。その後今日まで、ふだんは仲良くロシア語を話し生活していても、国家間の諍いが起こると、分断され、大国に都合よく利用され、悲惨な状況をもたらすことになるのだ。

 いつの時代もどの国家でも極端な軍国的ナショナリズムの昂揚は要注意である。それが歴史の教えているところであろう。

 

 

最近の呟き 2021-6-18まで

女王:楽しそうにしていればいいの?
英国首相:まったくその通りです。私たちは楽しんでいますよ。

☆打ち合わせの言葉をそのまま言っても平気、さすが女王。首相の答えも合格。

これは印象に残った。
G7 #エリザベス女王

行動経済学では選択肢が多すぎると人は負担を感じ決められなくなるという。
読売新聞記事より
#選択のオーバーロード現象

そう言えば、専門書は別だが、大きな図書館や書店においても同じような経験をしたことがあるな。
読みたい本が多すぎて選べない!

エリザベス・テイラー扮する「クレオパトラ」昨日TVで見た。4時間超える力作。評価は分かれるが、自分は楽しめたし、見応えあった。

この映画を見た後、E.H.ゴンブリッチの『若い読者のための世界史』、中山典夫訳、を再読し始めた。

もはや老いぼれた自分だが、この本とても面白い。訳も読み易くていい。

ゴンブリッチの若いときの著作だが、「50年後のあとがき」にある歴史家としての苦い言葉、「このような恐ろしいことが私の時代にくりかえされようとは夢にも思いませんでした。…しかし、そのとき私の考えにおよばなかったことが、まさに起こったのです」は深く噛み締める必要がある。

 

 

2020年8月1日晴れ

新年からの新型コロナ禍が第2波とは言うものの収束も終息もなきまま、7月は雨の日々で今年も河川氾濫による酷い豪雨災害。

日本国中、慌ただしくも、もう8月を迎え、今日はやっと朝から晴れた。

世界中、資本主義も危ぶまれる不安定な世の中になったが、小生は朝から晴れた日の小さな作業をするしかなし。

T市自宅リビングのエアコンフィルター掃除。洗濯機内のフィルター掃除。バスルームの排水口掃除。網戸のルーラーに潤滑油をスプレー。

家人買い物の間、100均に行き重曹スプレー、電池、蚊取り線香のためのライターを求む。クエン酸のスプレーはなかった。スーパーのベンチで朝日新聞の記事、書評欄など読む。風は意外に涼しい。

昼食はそばと焼きおにぎり2個。

今、夕刻となりビール。

今日の新聞まだ読み終わらぬ。

 

 

 

 

東京電力とNTT

東京電力とNTTとを間違えて電話した。

東京電力もNTTもどちらも電柱を建てているが、自分の頭では電柱は電気を灯す東電のものという、より幼い頃からの認識が強すぎた。

で、電柱を支えているワイヤー除去の件で、相談しようとして、東京電力に電話したが、3度目の電話でその電柱はNTTのものだと言われて、相手先を間違えたことに初めて気づいた。

昔、NTTは電報電話局とかいう名称だったと思うが、こちらは電電公社と覚えたものだ。

ところが、今回は自分の脳回路が東京電力の横文字略称=NTTと勝手に誤認していたという次第。

子供の頃覚えた会社の名称で、どちらも電が付いて電線があり電柱を建てているから、いつのまにか混線していたのかもしれない。

 

最初に間違って電話してしまい、いくつか電話を回され、そして話がなかなか通じなかったので、ついきついことを言ってしまった東京電力の女性オペレーターにお詫びします。

COVID19

COVID19によって、世界の都市風景は、今や僅か1ヶ月、1週間、1日でみるみる違ったものになってきた。


COVID19は、あたかも現代の人間社会の様々な矛盾点や弱点を知っているかのようで怖いほどだ。

 

COVID19は、現代社会のさまざまな矛盾点を次々と照射してきた。情け容赦なしだ。